【百合の短歌30選】白く揺れる命の花🌿近代歌人が詠んだ百合の世界

短歌 百合
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夏のはじめ、野山にすっと立ち上がる百合の白い花——
その姿には、いつの時代も人の心を揺さぶる何かがあります。

歌人たち、百合の花に恋心を重ねたり、静かな祈りを込めたり、生命の力強さを見出したりしながら、31音の中に百合の世界を刻んできました。

この記事では、明治から昭和前期にかけての近代歌人が詠んだ百合の短歌を30首を厳選してご紹介します。

目次

恋心を百合に託した近代短歌7首

白い花びらのなかに、言葉にできない気持ちがそっと隠されています。

野に咲く百合の清らかさは、恋する者の胸の内とどこか重なり、近代の歌人たちは恋心を百合に託すことで、感情の深みを31音に凝縮しました。

ためらいも、切なさも、百合の香りとともに漂ってきます。百合の歌の中でも、恋を詠んだものは特に情景の輪郭がくっきりしています。

野の靄に百合の香みつる曙を
乙女が祈る戀美しき

若山牧水
出典:歌集未収録歌(1903年)
現代語訳:野の霞に百合の香りが満ちる夜明けに、乙女が祈っている——その恋はなんと美しいことか。
猫
夜明けの霞と百合の香が一体になった場面ニャ。誰かへの祈りを「戀美しき」と静かに詠んだところに、牧水の若い感受性が滲んでいるニャン。

怨まむにあまりけだかき笑みなれや
百合による子のまだ戀知らぬ

若山牧水
出典:歌集未収録歌(1903年)
現代語訳:恨もうにも、あまりに高貴な笑顔ではないか——百合に寄りそうその子は、まだ恋を知らない。
猫
「恨もうにも恨めない」という複雑な心が面白いニャ。百合に寄りそう無垢な笑顔が、恋する者の切なさをかえって際立てているニャン。

髪ながき少女とうまれしろ百合に
額は伏せつつ君をこそ思へ

山川登美子
出典:『恋衣』(1905年)
現代語訳:長い髪の少女として生まれた私は、白百合に額を伏せながら、ひたすらあなたのことを思う。
猫
「髪ながき少女」という自己描写が美しいニャ。白百合に額を伏せる静かな礼拝のような姿に、一途な恋心が重なって見えるニャン。

夢にだにせめて思へとその君に
小百合の露の歌ささやきぬ

与謝野晶子
出典:『みだれ髪』(1901年)
現代語訳:せめて夢の中だけでも私を思ってくれと、その君に小百合の露に込めた歌をそっとささやいた。
猫
「夢にだにせめて」という言葉に、想いが届かない切なさが滲んでいるニャ。小百合の露という繊細な比喩で、恋の儚さを表しているニャン。

薄月に君が名を呼ぶ清水かげ
小百合ゆすれてしら露ちりぬ

山川登美子
出典:『恋衣』(1905年)
現代語訳:薄い月の下、清水のほとりで君の名を呼ぶと、小百合が揺れて白い露が散った。
猫
名を呼ぶ声が百合を揺らし露が散る——呼びかけの行為と自然の反応が美しく連動しているニャ。恋する声が世界をそっと動かすような場面ニャン。

百合ひらき初めて匂ふあかつきの
ここちを君に覺えき我れは

与謝野晶子
出典:『火の鳥』(1919年)
現代語訳:百合が初めて開いて香りを放つ夜明けの感覚——そのような気持ちをあなたに感じたのだ、私は。
猫
恋の始まりを「百合が初めて開く夜明け」に重ねているニャ。花が開いて初めて香りが生まれるように、あなたに出会って初めて自分の感情が開いた、という表現が鮮やかニャン。

百合もたば女神と見えむ夏姿
我れの妹にあまり美き人

前田夕暮
出典:歌稿「青あらし」(1905年)
現代語訳:百合を手に持ったなら女神にも見えるだろう夏の姿——私の愛する人はあまりにも美しい。
猫
百合を持つ姿が女神を連想させるという視線が詩的ニャ。夏の日差しの中に立つ人の美しさを、百合というひとつの小道具で一気に神聖な高みへ引き上げているニャン。

恋を詠んだ短歌を知りたい方は、以下の記事も合わせて読んでみて下さい。

清らかさ・神聖さを詠んだ百合の短歌7首

白百合はその色と香りから、古くから純潔と祈りの象徴として扱われてきました。

近代の歌人たちも、白百合に静謐な神聖さを感じ取りながら、祈るような気持ちを歌に込めています。

清水の音、霧のたちこめる朝、月の光——そういった場面に白百合はよく似合います。白百合の純白が、心の奥の祈りをそのまま形にしているようです。

せめてただ女神の冠しろ百合の
花のひとつと光そへむまで

山川登美子
出典:『恋衣』(1905年)
現代語訳:せめて、女神の冠に添えられた白百合の花のひとつとして、光を加えるほどのものになりたい。
猫
「せめて」という言葉の慎ましさが胸を打つニャ。女神の冠の白百合のひとつにでもなれたら、という控えめな願いに、深い敬慕の念が宿っているニャン。

誰がために摘めりともなし百合の花
聖書にのせて祷りてやまむ

山川登美子
出典:『恋衣』(1905年)
現代語訳:誰のために摘んだというわけでもない百合の花——聖書の上に載せて、ただ祈り続けよう。
猫
「誰がためにともなし」という無目的さが印象的ニャ。それでも聖書に百合を載せて祈る行為に、静かな信仰の深さが滲み出ているニャン。

その神のみすがた知らず御名知らず
夢はましろの百合の園生に

増田雅子
出典:『恋衣』(1905年)
現代語訳:その神のお姿も御名も知らないが、夢の中では真っ白な百合の園にいた。
猫
神の名も知らないのに夢の中は白百合の園——言葉にできない聖なるものへの感覚を、百合の白さで表しているニャ。神秘的な美しさがあるニャン。

大なるいのちのなかにあることの
証に咲きぬ白百合の花

与謝野鉄幹
出典:『相聞』(1910年)
現代語訳:大きな命の中に自分がいることの証しとして、白百合の花が咲いた。
猫
「大なるいのちのなかにある」という宇宙的な感覚ニャ。白百合の開花を、自分が命の一部であることの証として見る眼差しが壮大で美しいニャン。

しろがねにひびく光の天壇の
御燭咲きぬ百合といふ名に

石川啄木
出典:小天地(1905年)
現代語訳:銀色に輝く天の祭壇に灯された神聖な燭のように咲く——「百合」という名を持つ花に。
猫
「天壇の御燭」という比喩が格調高いニャ。百合の花そのものを天に灯された聖なる蠟燭に見立てることで、花名に込められた神聖さを詠み上げているニャン。

ソロモンの古き榮華に勝るもの
野の百合のみと思はぬもわれ

与謝野晶子
出典:『太陽と薔薇』(1921年)
現代語訳:ソロモン王の古い栄華よりも優れているのは野の百合だけだとは、私も思わないではない。(聖書の言葉を踏まえた詠嘆。)
猫
新約聖書の「野の百合を見よ」を踏まえた歌ニャ。「思はぬもわれ」という言い回しで、あえて断定を避けながら、やはり百合の美しさを肯定している含みが面白いニャン。

白百合の花が秘めたる黃の蕋の
あらはれいでていつくしきかも

窪田空穂
出典:『朴の葉』(1920年)
現代語訳:白百合の花が奥に秘めていた黄色い蕊が、やがて現れ出てきた——なんといつくしいことか。
猫
白い花びらの奥に隠れていた黄の蕊が現れる瞬間ニャ。「秘めたる」という言葉で内側に潜む美しさを捉え、その顕われを「いつくし」と詠む観察の細やかさが窪田らしいニャン。

夏の野山と百合の光景を詠んだ短歌6首

朝靄のかかる野原に白百合がすっと立ち、夏の風に揺れている——近代の歌人たちは、そういった場面を丁寧な目で捉えていました。

百合は夏の野山の象徴でもあり、旅する者が道中で出会う花でもありました。自然の中に溶け込んだ百合の姿が、清々しく広がります。夏の百合は、光と風と露という三つの要素とともに詠まれることが多いのが特徴です。

朝靄の流るる野邊に立つ衣の
水色こめて百合白う咲く

若山牧水
出典:歌集未収録歌(1903年)
現代語訳:朝靄が流れる野辺に、水色の衣をまとった人が立ち、そこに百合が白く咲いている。
猫
朝靄の野に水色の衣と白百合——色彩の取り合わせが淡く美しいニャ。靄の中にぼんやりと浮かぶ景色が、夢と現実の境界のようで詩的ニャン。

夏草の茂りの上にあらはれて
風になびける山百合の花

若山牧水
出典:『白梅集』(1917年)
現代語訳:夏草の繁みの上に姿を現して、風になびいている山百合の花よ。
猫
夏草の繁みをかき分けて現れる山百合の姿ニャ。「あらはれて」という動詞が、百合の登場感をドラマチックに伝えているニャン。

折りとればわれより高き山百合の
靑葉がくれの大白蕾

若山牧水
出典:『白梅集』(1917年)
現代語訳:折り取ると自分より背が高い山百合——青葉の陰に隠れた大きな白い蕾よ。
猫
「われより高き」という自分との比較が親しみやすいニャ。青葉に隠れた大きな白蕾の存在感が、折り取る動作によって初めて実感される場面ニャン。

朝あけの風にもまるる草高し
白百合多く動きつつ見ゆ

島木赤彦
出典:短歌拾遺(1918年)
現代語訳:夜明けの風に揉まれて草は高く揺れ、白百合が多くゆさゆさと動いて見える。
猫
「もまるる」という動詞が風の力強さをよく伝えているニャ。夜明けの風に揺れる無数の白百合の群れ——ダイナミックな朝の情景が目に浮かぶニャン。

砂淸き谷川はたの草むらに
露未だある車百合の花

島木赤彦
出典:馬鈴薯の花以前(1904年)
現代語訳:砂の清らかな谷川のほとりの草むらに、まだ露が残っている車百合の花よ。
猫
「砂清き谷川はた」という場所の描写が細かくて、情景がはっきり浮かぶニャ。まだ乾ぬ朝の露が残る車百合——清冽な朝の空気が伝わってくるニャン。

清水ゆく草むらなかの白き百合
うち搖すれつつ花はこぼれず

島木赤彦
出典:短歌拾遺(1917年)
現代語訳:清らかな水の流れる草むらの中で揺れている白い百合——揺さぶられながらも花びらは散らない。
猫
「揺れながらも花はこぼれず」という観察がいいニャ。清水のそばで揺れる百合の粘り強さ、しなやかな強さが伝わってくるニャン。

孤独と哀しみを詠んだ百合の短歌5首

百合の花は、その白さゆえに、喪失や別れの場面にも寄りそいます。

病床の枕辺に置かれた白百合、墓前に咲く鉄砲百合、夕暮れに散る百合——白百合の純白は、悲しみの深さを際立てることもあります。

近代歌人の目には、百合はしばしば孤独な魂の傍らに立つ花として映っていました。哀しみの歌ほど、百合の白さが心に刺さります。

打疲れこころかなしく眺めやる
小暗きかたに白き百合咲く

窪田空穂
出典:初期拾遺(1910年)
現代語訳:疲れ果てて悲しい気持ちで眺めると、薄暗い隅のほうに白い百合が咲いている。
猫
「打疲れ」という言葉に体の重さが滲んでいるニャ。暗がりの中で光る白百合が、疲れた心にどう映るか——慰めとも寂しさとも取れる余韻が深いニャン。

枕辺の瓶の白百合その中に
一輪赤し我は慰む

石川啄木
出典:明治四十一年歌稿ノート(1908年)
現代語訳:枕元の花瓶の白百合の中に、一輪だけ赤い花がある——それに私は慰められる。
猫
白い百合の中にぽつんと一輪の赤——その対比が病床の孤独を和らげているニャ。「我は慰む」という素直な言葉に啄木らしい正直さがあるニャン。

はかなしや病ひ癒えざる枕べに
七日咲きたる白百合の花

萩原朔太郎
出典:短歌(1913年)
現代語訳:はかないことよ——病が癒えないまま、枕元で七日間も咲き続けた白百合の花よ。
猫
病が癒えない七日間、百合だけが咲き続けているニャ。花の命と病床の時間が並走する対比に「はかなしや」という詠嘆がよく効いているニャン。

百合ちりぬ誰そくらがりに笞つや
真白き少女おもふたぎ泣く

与謝野鉄幹
出典:『相聞』(1910年)
現代語訳:百合が散った——誰が暗がりで鞭打つのか、真っ白な少女のことを思って激しく泣く。
猫
百合が散る瞬間と少女への哀憐が結びついているニャ。「たぎ泣く」という激しい言葉が、抑えきれない感情を伝えていて印象的ニャン。

夏の夜のくらがりに居て百合のごと
われも息づく君を見ぬ時

与謝野晶子
出典:『火の鳥』(1919年)
現代語訳:夏の夜の暗がりの中で、百合のようにひっそりと息づいている——あなたに会えない時に。
猫
暗闇の中で静かに息づく百合——晶子はその姿を自分の孤独に重ねているニャ。会えないときの寂しさが、百合のひっそりとした息吹で表されていて切ないニャン。

力強さ・生命力を詠んだ鉄砲百合の短歌5首

鉄砲百合は、その名のとおり細長く鋭い花筒を上に向けて咲きます。

柔らかさや優雅さよりも、一本の軸から力がみなぎるような花の形——近代の歌人たちはその姿に、どこか凛とした潔さを感じ取りました。

墓前に立つ鉄砲百合も、病む者の傍らにある鉄砲百合も、ゆるぎない白さで立ち続けます。「鉄砲」という語が示すように、清潔な鋭さが鉄砲百合の本質です。

投揷の鐵砲百合の花も葉も
尖り鋭く清けくありけり

窪田空穂
出典:『冬日ざし』(1941年)
現代語訳:生け花に挿された鉄砲百合の花も葉も、先が尖って鋭く、清々しいことよ。
猫
花も葉も尖っているという観察が面白いニャ。「清けくありけり」という詠嘆に、鉄砲百合の持つピンと張った清潔感への愛着が滲んでいるニャン。

花と葉と尖り鋭く亂れあふ
鐵砲百合よ離れては見む

窪田空穂
出典:『冬日ざし』(1941年)
現代語訳:花も葉も尖って鋭く、互いに乱れ合っている鉄砲百合よ——少し離れて見よう。
猫
鋭さが「乱れ合う」という表現に、鉄砲百合の生命力のほとばしりを感じるニャ。「離れては見む」という一歩引く眼差しも面白いニャン。

頸長の鉄砲百合は日に向くと
鉢ごとに白く突き出すがしさ

北原白秋
出典:『白南風』(1934年)
現代語訳:首の長い鉄砲百合は日の方向へ向かい、鉢ごとに白く突き出している清々しさよ。
猫
「頸長の」という描写が鉄砲百合の細長さをよく捉えているニャ。鉢植えが一斉に日を向いて白く突き出す光景に、清快な生命力を見ているニャン。

をさなかる息とどめあへずこの墓の
力張りきる鉄砲百合のはな

北原白秋
出典:『白南風』(1934年)
現代語訳:幼い(命の)息も絶えてしまったこの墓に、力強く張り切って咲いている鉄砲百合の花よ。
猫
幼い命の墓と、力強く咲く鉄砲百合の対比がひりひりするニャ。「力張りきる」という言葉が、喪失の悲しみの前でも容赦なく生きる花の姿を伝えているニャン。

心ぐき鐡砲百合か我が語る
かたへに深く耳開き居り

長塚節
出典:長塚節全集(1914年)
現代語訳:心にしみる鉄砲百合よ——私が語る傍らで、深く耳を開いているようだ。
猫
鉄砲百合が「深く耳を開いている」という擬人化が温かいニャ。語りかけに応えるように静かに立つ花の姿——孤独な思索の傍らにある花として描かれているニャン。

近代歌人はなぜ百合を詠んだか——百合の短歌に流れる三つの時代精神

ここまで30首の百合の短歌を読んでくると、近代歌人が百合に寄せた感情の多様さに気づきます。

恋、祈り、夏の生命、孤独、力強さ——ひとつの花にこれほど多面的なイメージが重なるのは、なぜでしょうか。編集部なりに三つの視点から考えてみました。

万葉の「さ百合」から近代の「白百合」へ

百合は万葉集にも「さ百合花」として詠まれており、日本人にとって古くから親しみのある花です。

万葉では球根を食べる習俗に触れた歌も見られ、野山の花として詠まれた例もあります。それが近代になると、「白百合」という色の強調が際立ってきます。

色を指定することで、近代歌人たちは百合を単なる植物以上の象徴として扱い始めたのかもしれません。

明治のキリスト教文化と白百合の象徴

明治期には、キリスト教が一部の知識層や文学者に広く受け入れられ、思想・文学に少なからぬ影響を与えました。

新約聖書に「野の百合を見よ」(マタイ6章)という言葉があり、白百合は西洋でも聖母マリアの花として知られていました。

今回紹介した山川登美子の「誰がために摘めりともなし百合の花 聖書にのせて祷りてやまむ」や、増田雅子の「その神のみすがた知らず御名知らず 夢はましろの百合の園生に」は、白百合と信仰のつながりを直接示す歌と読めます

与謝野晶子の「ソロモンの古き榮華に勝るもの 野の百合のみ」も、聖書のこの一節を文学的な教養として踏まえた詠嘆と見ることができます。

明治の文学者にとって、白百合は和歌の伝統と西洋の精神性が交差する花でもあったようです。

与謝野晶子における百合=女性の自我という読み

与謝野晶子は、今回の素材の中でも百合を恋と自己表現の象徴として用いています。

「百合ひらき初めて匂ふあかつきの ここちを君に覺えき我れは」は、恋の始まりを百合の開花になぞらえた歌です。

また「百合の花わざと魔の手に折らせおきて 拾ひて抱かぬ神のこころか」という一首では、百合と女性の意志が複雑に絡み合っています。

晶子の歌において百合は、開くこと・咲くこと・香ること——能動的な生の感覚を象徴する花として機能しているように感じられます。これは彼女が短歌で表現しようとした「女性の自我」の表れと読むこともできるでしょう。

まとめ——百合の短歌を暮らしに

今回は近代歌人が詠んだ百合の短歌を30首、感情の軸ごとに紹介しました。

恋心を白い花弁に重ねた歌、静かな祈りを込めた歌、夏の野山の清々しさを詠んだ歌、孤独や哀しみに寄りそう百合、そして力強く鋭く立つ鉄砲百合の生命力——ひとつの花の中に、これほど多くの人間の感情が宿っていることに、あらためて驚かされます。

夏のはじめ、庭先や道端に白百合が咲くのを見かけたとき、近代歌人たちの言葉をひとつ思い出してみてください。

百合の香りの中で読む短歌は、きっとひと味違って感じられるはずです。31音の言葉が、花の美しさをいっそう深く見せてくれます。

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